タレントの黒柳徹子さんとえば、「徹子の部屋」や「世界不思議発見」「ザ・ベストテン」という長者番組の司会者として知られてます。
世間的には”何歳かわからないミステリアスな女性””面白いことを言う個性的な女性”というイメージが強いかもしれませんが、実はお嬢様育ちの素晴らしい女性です。
若い頃の黒柳徹子さんは女優や吹き替えの仕事を活発に行っており、多彩な美女でありました。
今日は黒柳徹子さんの凄すぎる家系図と、若い頃の美しい姿について書いてみたいと思います。
黒柳徹子さんの若い頃の姿を年齢順に振り返ってみたいと思います。
黒柳徹子の若い頃からの経歴まとめ(年齢順)
1933年8月9日 | 0歳 | 東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)乃木坂に生まれる。 |
1940年 | 7歳 | 落書きが理由で尋常小学校(現:公立小学校)を1年生の時に退学。「トモエ学校」に転校。 |
1945年4月 | 12歳 | 東京大空襲をきっかけに青森県三戸郡(現・南部町)の諏訪ノ平に疎開。 |
1946年 | 13歳 | 香蘭女学校入学(5年制の中学・高校) |
1951年 | 18歳 | 東洋音楽学校声楽科(現在の東京音楽大学音楽学部声楽科)入学。 |
1954年 | 21歳 | ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』(1954年 - 1957年)で主演。 |
1958年 | 25歳 | NHK放送劇団に所属。テレビ女優第1号としてNHK入局。「海は生きている」で女優デビュー。 |
1958年 | 25歳 | 『第9回NHK紅白歌合戦』で自身初となる紅組司会を務めた。 |
1959年 | 26歳 | テレビドラマ「夜の仲間」で初出演。 |
1961年 | 28歳 | 第1回日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞。 |
1971年 | 38歳 | 1年間ニューヨークへ留学し、セントラル・パーク西隣のワンルームに生活する。留学中に洋服と和服の両方に合う”タマネギヘア”を須賀勇介と考案。 |
1976年 | 43歳 | 「徹子の部屋」スタート。 |
1978年 | 45歳 | 「ベストテン」スタート。 |
1986年 | 53歳 | 『世界・ふしぎ発見!』スタート。 |
2009年 | 76歳 | 有吉に「クソババア」とあだ名を付けられる。 |
黒柳徹子の子供時代。家系図がすごい!父と母も偉大
東京都の赤坂に1933年に誕生した黒柳徹子さん。
小学生の頃に戦争を経験するなど、かなり人生経験は濃いです。
黒柳徹子さんの家族構成は両親と妹と弟の五人家族です。弟さんは黒柳さんがまだ幼い頃に亡くなっています。
父親はバイオリストの黒柳守綱さん、母親は声楽科の黒柳朝さんと、両親揃って音楽家であります。
黒柳徹子さんも幼少からピアノを習っており、まさに音楽一家であります。
実家はかなりのお金持ちで、小学校は名門・尋常小学校でした。(落書きが理由でわずか3ヶ月で退学)
転校したトモエ学園は黒柳さんの個性を尊重し、校長先生は落ち着きのない黒柳さん相手でも「何か話してごらん」と、4時間も話をじっくり聞いてくれたそうです。当時の黒柳さんは「女スパイになりたい」と周囲に言っていますが、当時の先生に「おしゃべりはスパイになれないんだよ」と言われ諦めたそうです。
戦争が激しくなると、青森県三戸郡(現・南部町)の諏訪ノ平に疎開。
戦争が終わると、名門・香蘭女学校に入学しました。
私立の女子校であります。
戦争後の日本は史上最も貧しかったと言われているので、そんな時代でも富裕層の多い学校に進学させることができるなんて、黒柳さんの家系がよほど裕福だったことが分かります。
黒柳徹子さんの学校の先輩にジャーナリストの兼高かおるさんがいたそうですが、在学中に訪問した際には、全生徒がギャーギャー言うぐらい騒がれ、まるで大スターのようだったそうです。
黒柳徹子の若い頃の美しさ。高校・大学から新人女優時代まで
黒柳徹子さんは東洋音楽学校大学に進学し、そこではオペラ歌手を希望します。
大学生の頃から、すでに美貌は冴え渡り、学園の人気者でありました。
しかし、オペラの歌詞が覚えることができないことから、その後に子供に人形劇や絵本を読み聞かせることが上手な母になるため、NHK放送劇団に入団します。
応募者6000人のオーディションでしたが、黒柳徹子さんは13人の枠を獲得。
当時から美貌も才能も認められていたということです。
当時の黒柳徹子さんは週に8本のドラマに出るなど激務を極め、過労で倒れ1ヶ月入院したこともあったそうです。
黒柳さんは美貌や演技が優れていただけでなく、トーク力にも長けており、女優以外の司会業でも人気でした。
25歳で紅白の司会を務めると、27歳の頃には自身が司会の番組「夢で会いましょう」が大好評。
若い頃の黒柳徹子さんは、現在の売れっ子女優とは比較にならないほど優秀で人気者だったことがわかります。
30代になっても美しさは変わらず、多くの女性の憧れでありました。
そんな黒柳さんですが、37歳の1970年に出演したミュージカル『スカーレット』でブロードウェイのスタッフとともに仕事をして親しくなり、その際に作曲家のハロルド・ロームの夫人・フローレンスから、
「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!」
と招きを受け、ニューヨークへの留学を決意します。
黒柳徹子の若い頃。ニューヨーク留学時代に現在の髪型が完成!
黒柳徹子さんといえば、大きなマッシュルームのようなタマネギヘアがトレードマークであります。
実はこの髪型は30代の後半に、ニューヨークに留学した時に完成された髪型で、現在までに50年以上も同じ髪型をしているのです!
洋服と和服、両方に合うように、ニューヨークで知り合って友人となったアメリカで活躍中のヘアメイクアーティスト・須賀勇介のアイディアを交えつつ完成させたのです。
確かに、和服も洋服もバッチリな髪型であります。
1971年9月から1年間ニューヨークへ留学し、セントラル・パーク西隣のワンルームで生活していたようですが、生活感がとてもおしゃれで洗練されています。
今から半世紀以上も昔の人とは思えないほど美しいです。
40歳手前にしてこの美貌は凄すぎますね!
黒柳徹子は結婚しない?圧倒的にモテていたが婚期を逃し生涯独身に
1933年生まれの黒柳徹子さんですが、実は結婚したことが一度もありません。
20代で女優としてブレイクして以降、半永久的に忙しい毎日を送ってきたので無理もありません。
若い頃の黒柳さんを振り返ると、圧倒的に美人で才能に溢れ、男性には困らない印象であります。
実際に、黒柳さんは当時からずっとモテモテだったそうです。
2017年1月25日に放送されたバラエティ番組『1周回って知らない話 黒柳徹子に失礼な質問10連発SP』や、2018年1月9日に放送されたトークバラエティ番組『チマタの噺』では、過去に結婚を考えた男性が2人いたことを明かしました。
一度目は20代前半の頃で、相手の男性に「結婚してもいいけど、結婚ってそんなに面白いものじゃないよ」と言われ、結局は仕事の道を選んだそう。
二度目は30代の頃で、外国人男性と交際していたそうですが、遠距離恋愛のまま死別してしまったそうです。
その方とは年に1、2回しか会えなかったものの40年も交際関係が続き、結婚も考えていたそうです。
ジャニー喜多川と永六輔との結婚が噂されていた?
黒柳さんは50年以上の経歴を誇りますが、男性有名人と噂になったことは数えられるほどしかありません。
黒柳さんが噂になった人物とは、作詞家の永六輔と、ジャニーズ事務所の創立者のジャニー喜多川さんです。
永六輔さんと黒柳さんは40年以上の友人関係であり、2002年に永六輔さんの嫁さんが死去されて以降、永六輔さんは「俺は黒柳徹子と再婚するかも」と冗談で語っていたそうです。
ジャニー喜多川さんとは50年以上の仲で、黒柳さんはジャニーさんのことを”旦那”と呼んでいたそうです。
2019年7月に、ジャニー喜多川さんは死去。同年9月4日に東京ドームで行われたジャニー喜多川さんの『お別れの会』に、黒柳徹子さんは出席しました
その際、「本当に旦那さんが亡くなったみたい」と別れを惜しんでいました。
いずれも仕事関係で結びついた仲で、どこまで本当の恋かわかりませんが、男女関係なく友情を続けられる素敵な人間であることは確かです。
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